■青森県写真集■
青森県の 『マニアックな場所やイベント 』 を集めたページです。
2006年、2007年、2008年の3年間に撮影しました。
<りんご市場> 青森県弘前市 2006年 9月16日撮影
弘前市の国道7号線沿いには広大な敷地を持つ総合地方卸売市場「弘果弘前中央青果株式会社」があります。
早生りんごが収穫の最盛期ということで、16日は「サンつがる」を中心に34,900箱の入荷があったそうです。
10月のりんご収穫最盛期には200,000箱以上入荷するそうです。今日の6倍以上のりんご箱で溢れるということです。
懐かしいりんごの木箱で一杯でした。
市場の見学は事前に電話して確認しておいたのですが、今回は担当の方が広い構内を案内してくださいました。多謝。
  参考ページ → 弘果弘前中央青果株式会社会社案内施設見学
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第2卸売市場(6311平方メートル)の競りは半分終わった頃でした。
「つがる」と「サンつがる」。
屋内市場に入りきらないりんご箱が駐車場に並べられています。
競りは2つのグループで行われていました。30分で全て競り落とされました。
「黄王」と「サンつがる」。
第3卸売場(4783平方メートル)はりんご箱で満杯。
次から次へと競り落とされていきます。
競り落とされたりんごはどんどん運び出されていきます。
りんご豆知識
青森県のりんごは、1875年に最初の苗木3本が植えられてから、様々な苦難を乗り越えてきました。
苦難その一、植物としての「病気」と「害虫」の発生。
モニリア病、りんご赤星病、斑点性落葉病、黒星病、りんご腐らん病、斑点落葉病、高接病とたくさんの病気の発生、ゾウムシ、綿虫、シンクイ虫、尺取虫の大発生。
苦難その二過酷な気象
大雪による幹の裂開、霜害、ひょう害、水害などで樹体を痛めつけられ、台風や強風によって収穫間近の落果
記憶に新しいところでは、1991年9月28日の台風19号は青森市で観測史上最高の最大瞬間風速53.9m/sを記録し、大量の落果があり、全国からりんご農家支援の手が差しのべられました。
苦難その三嗜好果物との競合
ミカンイチゴの増産、バナナの輸入増、リンゴ果汁輸入自由化、オレンジ輸入自由化、りんご輸入相手国の拡大など、競争相手の勃興。
対策その一、手間を惜しまない。
手間をかけることによって消費者の選好に合った商品を生産。開花から収穫までの間に、りんご農家は樹上の実に数回触れることになる。
実すぐり(摘果):大きく、良い形になる中心果を残し、側果をつみ取る。実と実がぶつかって擦れないよう適度な間隔を空ける。
袋かけ、袋はぎ:病害虫から実を守る。着色を良くする。袋をかけて育ったりんごは貯蔵性が良い。陸奥という品種は、袋をかけずに育てると黄緑の実(”青い”と見る人もいる)となり、袋をかけて収穫直前に袋を除いて日光浴をさせると鮮やかな朱色の実となる。
葉とり:実の回りの葉を摘み、実に太陽が良く当たるようにして着色を促進する。ただし、植物にとっては葉が多いほうが光合成も十分できるので、甘い実を作ることができる。最近では、「葉とらずりんご」と称して見た目は悪くとも糖度・栄養分が多いりんごとして売り出している。
玉まわし:実の各面を太陽に向けてまんべんなく着色させる。
対策その二、豊富な品揃え
夏緑、祝(いわい)、黄王(きおう)、未希ライフ(みきらいふ)、つがる、彩香(さいか)、千秋(せんしゅう)、紅玉(こうぎょく)、スターキング・デリシャス、世界一、ジョナゴールド、北斗、陸奥(むつ)、シナノゴールド、王林(おうりん)、ふじ、金星(きんせい)などたくさんの品種が栽培されています。私の子供の頃には国光(こっこう)という名のりんごがあったと記憶しています。品種開発は、@消費者の嗜好の多様化、A病害虫への強健性、B流通販売過程での日持ちの良さ、などを狙いにしているようです。
りんごの授粉
りんごは同じ品種の花粉では実がならないので、他の品種が側に植わっている必要があります。
昔は耳かきの綿毛のような道具で花粉を付けて回る様子が報道されていましたが、昭和50年代からマメコバチという蜂を使って授粉させる方法が普及しています。
津軽地方では、りんごの花が咲く頃は学校が休みになったそうです。
昭和40年には天候不順で花が一斉に咲いたため、中学生や高校生、自衛隊員を動員して授粉作業をしたそうです。
むかし人工授粉をやっていたという人に手順を聞きました。
まずりんごの花を採ってきます。1つの株に5つくらいの花が咲くので、真ん中の花以外の側花を集めます。小さな目の網に花を擦りつけて雄しべの葯(ヤク)だけを集め、りんご箱の中で電球を付けて暖めると、翌日には葯がはじけて花粉が出てきます。集まったりんごの花粉に石松子(せきしょうし:ヒカゲノカズラの胞子)という増量剤を加えて準備完了。石松子は赤く着色されているので授粉済みの花の目印ともなります。
木守りんご (きもりりんご)
果樹の枝の高いところに実を1つ残す風習。幸魂(さちだま)信仰の流れ。
「全部取ってしまうと、来年は実がならない」次の新生を促す種として残していると思われる。生命の再生を願い、豊作を祈る。自然の営みの中で収穫させてもらっていることへの畏敬の念。鳥や虫などと自然の恵みを分かち合う心の顕れとも。
「木守(きまもり)」「木(こ)もり」「木まぶり」とも言われる。柿や柚でも見られる。
『富士見ゆる村の寧しや木守柿   角川源義』
<拾いコンブ> 青森県六ヶ所村泊 2006年 9月30日撮影
ハマギクを探して下北半島の海岸に行ってみました。
海岸の岩場に白い花の姿がありました。
ハマギクだと思い写真を撮り、帰って調べたところ、コハマギクでした。

波に洗われる岩場の海岸ではコンブを拾う人の姿がありました。
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海岸の堤防に拾いコンブがズラリ。
ゴツゴツの岩場に白い波。
切れて漂うコンブを思い思いの道具で引き寄せていました。
コンブが集まってくる岩の割れ目。
結構な波が来ます。
岩の割れ目の奥で汐が吹き上がってコンブも投げ出されます。
おばあちゃんも頑張ってます。。
<フクジュソウ、キリストの墓> 青森県新郷村 2007年 3月 3日撮影
神秘の新郷村に春を探しに行ってきました。
八戸市から国道454号線を西に、五戸町を抜けて新郷村に入る。さらに西に行くと十和田湖に至るが、冬季は閉鎖され、除雪されているのは道の駅「しんごう」まで。その道の駅「しんごう」でさえ冬季は雪に閉ざされている。
なぞの「キリストの墓」、「ピラミッド」や「ドラキュラアイス」を確かめてきた。
途中、フクジュソウが咲き、春の訪れも感じられました。
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キリストの墓の説明書きは「ゴルゴダの丘で磔刑に処されたのは弟のイスキリであり、キリスト本人は日本に渡り、ここ新郷で106才の天寿を全うした」と記しています。
向こうの十字架が弟イスキリの墓「十代墓」、手前がキリストの墓「十来塚」。
大石神ピラミッド。
たんぼのワラ。
フクジュソウ。
ドラキュラアイス。
■降って湧いたキリストの墓伝説■
昭和10年、戸来村(へらいむら:現在の新郷村)の小高い竹やぶの中で土まんじゅうを発見し、キリストの墓「十来塚」と弟イスキリの墓「十代墓」ということになった。
この発見は、当時の佐々木伝次郎村長が、日本画家で古代史研究家の鳥谷幡山氏(とやばんざん)らを案内して村おこしの一環で実現した模様。
昭和11年、茨城県磯原町の武内巨麿氏(たけうちきよまろ:武内宿禰(たけのうちすくね)66代目の子孫にあたる皇祖皇太神宮。天津教。)の所蔵する文庫の中からキリストの遺言が発見され、裏付けられることになる。
この遺言によると、垂任天皇の時代、21歳のイエス・キリストは日本で約10年間修行し、ユダヤへ帰るが、まもなく迫害され磔(はりつけ)になったとされるが、実際に処刑されたのは弟のイスキリで、イエスは弟の遺髪を持ってシベリアへ逃れ、最終的に日本の八戸港へ上陸して戸来村に住みついて、十来太郎大天狗と称し、日本女性ミユ子を妻とし、三女をもうけ、106歳でなくなったということになっている。

降って湧いた説「湧説」と言う人もいるとか。
昭和38年から、6月第一日曜日にキリスト祭を観光協会が開催している。
■ナニャドヤラ■
青森県南部から岩手県北部に伝わる「ナニャドヤラ」の唄に合わせて踊る風習がある。
日本最古の盆踊りと自負する。
ネットで拾った唄詞の表記。
「ナニャドヤラ ナニャドナサレノー」
「ナニャドヤラー ナニャドナサレノ ナニャドヤラー」
「ナニャードヤレー ナニャドナサレデア ナニャドヤラヨー」
○唄詞の意味
・民俗学者の柳田國男は、「なんなりとおやりなさい」「なんなりとなされませんか」「どうなりともなさるがよい」と、女が男に向かってと呼びかける恋唄と解した。つまり、「今日は楽しい祭りの日です。若者達よ、もっと勇気を出して自分の心を示しなさい。元気を出しなさい」と若者を鼓舞している歌であるという説。
・言語学者の金田一京助は、「なせばなる、なさねばならぬ何事も」という道歌が地元方言でなまったものとして、笠宮殿下のご下問に答えたとのこと。
・長慶天皇(足利尊氏に吉野から追われ、名久井岳の長谷寺に隠棲)が梵語で作った唄との説。「長谷嶺居野宰叡(長谷よりほかに住む都がない)」という意味。味方に無事を知らせる内容をであるとの説。
・新郷村村史に長慶上皇の崩御に際しての弔い歌であると記載されている。
 奈任耶阿堵野羅世(なにゃあどやらよ) 
 奈任耶阿堵長谷嶺居野宰叡(なにゃあどなされいのさえ)
 奈任耶阿堵野羅世(なにゃあどやらよ)
・川守田英二(1891〜1960、岩手県一戸市出身)は、ヘブライ語で解釈。「お前の聖名をほめ讃えん お前の毛人を掃蕩して お前に聖名をほめ讃えん」、「聖前に主を讃えよ、聖前に主は逆賊を掃討したまえり 聖前に主を讃えよ」、「神のもとに、自分の軍は敵をやっつけたのだ。自分たちの大将を誉め称えよう」という意味の行進曲との説。
・一遍和尚が「ナムアミダブツ」を普及して歩き、念仏踊りとなって東北に伝わったとき「ナムアミダブツ」が「ナニャドヤラ」と変化したとする説。
・北村益(八戸町長)は、五・七・五で、俳句の元祖みたいなもので、もっとも短い短詩形の歌であるとの説。
○他の地方の人には「ニャンニャン」としか聞こえないため、「南部の猫唄」と呼ばれたりもする。
<大川原火流し> 青森県黒石市大川原 2007年 8月 16日撮影
「大川原火流し」は奇習、奇祭と呼ぶにふさわしい。
カヤとワラで作った舟を、舟子数名が曳きながら川を下る。
舟は、稲の早生(ワセ)、中生(ナカ)、晩生(オクテ)に見立てた3艘で、来年の豊凶を占う。
朝から各戸が集めたアシガヤとワラを使って舟を作る。
スゲ笠と野良着にすね当てをした舟子が早瀬や淵を懸命に舟を曳き、岸から村衆が笛太鼓と「ガンバレー」と声で励ます光景は、山奥の集落の厳しさと暖かさが交錯する。
■大川原集落は、南北朝時代に落人が移り住んだ集落だといわれている。この夜、自分で27代目だという住人と話をした。8月16日は後醍醐天皇の命日に当たり、650年以上にわたって絶えることなく火流しが行われているそうだ。灯火管制が厳しかった太平洋戦争中も中止しなかったとのことだ。
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大川原集落の上流端で早朝から舟作りに精を出していた。
テキパキと手が動いていく。
帆柱が自立した。
舟が完成。散らかったカヤ、ワラをかたづける者。舟子が曳く縄を取り付ける者。
ワラをあつかう手慣れた手。
完成して夜を待つ。
火流しの神事の前に、余ったワラ・カヤに火がつけられた。
火流しの前に川に入って水の感触を楽しむ。テレビの取材を受けていた。
スゲ笠と野良着姿の舟子のシルエットが物思いにふけるようだ。
神事。火流しを待つ人々。
舟に点火。
帆柱の先に火を受け、流れに曳き入れられる3艘の舟。
流れに入っていく舟と舟子。  (左の小さな写真にカーソルを置くと右の写真が入れ替わります。)




不如意な川の流れと川底のため悪戦苦闘している舟子たち。  (左の小さな写真にカーソルを置くと右の写真が入れ替わります。)




火を消さないよう悪戦苦闘する舟子たち。  (左の小さな写真にカーソルを置くと右の写真が入れ替わります。)




深みに足を取られて大変そう。橋の上から「ガンバレー」と黄色い声が飛ぶ。  (左の小さな写真にカーソルを置くと右の写真が入れ替わります。)




<はくちょう駅> 青森県平内町夏泊半島 2007年 11月 17日撮影
銀河鉄道夏泊線はくちょう駅が実在する!?
佐藤貞樹さんと陽子さんが設置した。
今は陽子さんが駅長である。
東奥日報に掲載された訃報
佐藤 貞樹氏(さとう・さだき=津軽三味線奏者・初代高橋竹山氏の公演プロデューサー)
 2001年8月18日午後2時34分、食道がんのため青森市内の病院で死去、75歳。〜中略〜
 1955年に青森芸術鑑賞協会(青森市)の設立にかかわり、81年まで事務局長として音楽鑑賞運動に尽力。高橋竹山氏の津軽三味線の芸術性をいち早く見抜き、70年代はじめから全国へ紹介。ほとんどの旅公演で行動を共にし、竹山ブームを陰で支えた。著書に「自伝 津軽三味線ひとり旅」(高橋竹山著)の聞き書き、「高橋竹山に聴く−津軽から世界へ」がある。
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『下の畑に居ます』と記述されることもある。
銀河鉄道は停車する時のレールだけが必要のようだ。
この駅では津軽の臭いがいっぱいだ。高木恭造と高橋竹山。
高橋竹山が音楽性を磨くために聴いたレコードとテープがギッシリ。貞樹さんの努力の跡だ。
<もう一つの青函連絡船桟橋> 青森県平内町浅所 2007年 12月 1日撮影
青函連絡船の航路として、青森県平内町小湊と函館を結ぶ航路があったそうだ。
1946年から貨物用補助航路として、GHQが貸し出した2隻の上陸用舟艇(LST)の甲板を車両甲板に改造して運航された。
吃水が浅い上陸用舟艇は津軽海峡の荒波に揉まれると船員でさえ激しい船酔いに襲われ、操船も難しかった。さらに、燃料の軽油を給油するために、横須賀まで8日をかけて往復したらしい。
約2年間の運航で19411輌の車輌を運んで廃止された。

この時使われたと思われる桟橋が平内町浅所に残っている。
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コンクリートの桟橋本体に枕木様の木材をはり付けてある。
現在は漁港の防波堤となっているようだ。
鉄のボルトが60年の歳月を語るようだ。
もやい杭。
もやい杭。
浅所海岸に杭の列がある。
<開墾村> 青森県三沢市斗南藩記念観光村 2007年 12月 16日撮影
会津藩士の過酷な運命の地となった斗南藩は廃藩置県(明治4年)により僅か一年余の歴史を閉じた。
斗南藩は明治4年8月弘前県に編入され、同年10月弘前県が青森県と改称されて県庁が現青森市に置かれた。
青森県が置かれた直後の明治5年、民間洋式牧場「開牧社」を設立した。
明治5年、旧斗南藩士廣澤安任(ひろさわやすとう)と旧八戸藩士太田広城はイギリス人のルセーとマキノンを招いて「開牧社」と言う会社をつくり、牧場を開きました。
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<三沢航空科学館> 青森県三沢市 2007年 12月 16日撮影
世界初の太平洋無着陸横断飛行の出発地になった三沢市には航空機をベースにした航空科学館がある。平成15年8月開館。
館内には青森県に縁のある航空史上の傑作が展示・紹介されている。
青森県に縁のある航空史上の出来事
 (1)日本初の民間プロ飛行士・白戸榮之助氏は五所川原市金木町出身。
 (2)航空機による周回航続距離の世界記録を樹立した航研機の設計者、工場長、パイロットとして青森県出身者が関与。
 (3)第二次世界大戦後初の国産航空機YS−11の技術委員長・木村秀政博士の先祖は五戸代官所の代官。
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太平洋を無着陸で飛び越えて行った二人の銅像が出迎えるエントランス。
1931年(昭和6年)10月、米国人飛行家クライド・パングボーン(35才)とヒュー・ハーンドン(26才)は、単発単葉機ミス・ビードル号を操縦して、三沢市淋代海岸を離陸、太平洋上を無着陸で飛行し、米国ワシントン州ウェナッチに胴体着陸した。
太平洋を無着陸で横断した初の快挙は、飛行時間41時間10分、飛行距離約7,847kmだった。
出発までの間、砂地をならして平らにした滑走路に杉板を敷き並べて滑走を容易にしたり、燃料の輸送と積み込み、機体の整備、宿泊の世話など、三沢の住民達は協力を惜しまなかった。

ミス・ビードル号
 ・アメリカ・べランカ社製の単発5人乗りの旅客機の後部座席と機体底部を燃料タンクに改造。
 ・全幅14.122m、全長8.420m、翌面積25.4平方メートル、エンジン出力450HP
 ・燃料約3,600L(ドラム缶18本分)を積み、約1,800m滑走して離陸。
 ・離陸後、車輪を切り離し、空気抵抗を減らして航行。

青森のりんごとのエピソード
ミス・ビードル号が出発するとき、三沢村民の小比類巻チヨさんが紅玉りんご数十個を手渡した。
困難な飛行中にあってこの青森りんごは二人を励まし、パングボーンは着陸を見守っていた母親に青森りんごを手渡したという。
お礼として、当時のウェナッチで評判のりんご品種であるリチャードデリシャスの果実を日本に送ったが、防疫上の理由で返送された。
この事情を知った青森県苹果試験場場長の須佐寅三郎氏は書簡を送り、1932年4月5日、穂木5本が送られてきた。
穂木は接ぎ木で増殖されてデリシャス系品種の改良に活用され、最近では2004年にあおり15号「星の金貨」が商標登録された。
1938年、航研機は航空機による周回航続距離の世界記録を樹立した。
周回飛行の概要
 ・千葉県銚子、群馬県太田、神奈川県平塚を結ぶ一周401.759kmの周回コース。
 ・千葉県木更津飛行場を1938年5月13日4:55に離陸、15日19:18に帰着。滞空時間62時間22分49秒。
 ・周回航続距離の世界記録11,651.011km、10,000kmコース速度の世界記録186.197km/時を樹立。
東京帝国大学航空研究所で岩本周平教授のもと五戸町出身の木村秀政らが設計。
東京瓦斯電気工業株式会社(のちの日野自動車)の大森工場で大湊出身の工藤富治が航空機機体工場長として製作。
弘前市出身の藤田雄蔵少佐が操縦。

航研機
 ・全幅27.93m、全長15.06m、全高3.6m、主翼面積87.3平方メートル、エンジン出力800HP
 ・機体重量4,225kg・離陸最大重量9,216kg
 ・最大速度245km/時、巡航速度196km/時
 ・乗員3名
第二次世界大戦後、日本は航空機の開発・製造・研究を禁止されていたが、1952年に禁が解かれた。
1957年、五戸町出身の木村秀政博士を技術委員長とした(財)輸送機設計研究協会が設立され、設計に着手。
1962年、試作1号機の初飛行。1965年、国産実用機として国内線に就航。
1973年(昭和48年)まで、182機が生産された。
YS-11の名は、輸送機設計研究協会の輸送の「Y」、設計の「S」、エンジンと翼の設計で、それぞれ1番目の案を採用したことから「11」(いちいち)と命名された。

YS−11
 ・全幅32m、全長26.30m、全高8.98m、主翼面積94.8平方メートル、 エンジン出力2,400軸馬力×2
 ・機体重量15,460kg、離陸最大重量24,500kg
 ・最大巡航速度474km/時、実用上昇限度6,100m、航続距離1,280km
 ・乗員2名、乗客64名
 ・初飛行:1962年(昭和37年)8月30日
<南部せんべい> 青森県三戸町 2008年 1月 6日撮影
店先で「南部せんべい」を焼いているところが見られるというので出かけてきた。
円形の型に水で練った小麦粉を入れて焼く「南部せんべい」。
型からはみ出た部分を切り落としたものを「せんべいのみみ」として売っている。
パリパリのみみやフニャフニャのみみなどがあり、店ごとに特徴があって、それぞれのファンがいるらしい。

三戸町で焼かれる「南部せんべい」は他の地域のものと比べると、やや薄手で軽い食感に特徴があり「三戸せんべい」とも呼ばれる。
三戸町には小さなお店が6軒ほどある。
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小山田煎餅店さんの店先。
煎餅を焼く窯。
生地を切る人、生地を焼く人。
<大山ふるさと資料館> 青森県外ヶ浜町 2008年 1月 13日撮影
大山ふるさと資料館には、むかし地域で使われていた道具がきちんと展示されていました。
資料館が位置する蟹田大平(おおだい)地区には、縄文時代草創期の遺跡があり日本最古の土器片が出土している。
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大山ふるさと資料館は廃校となった大山小学校の校舎を利用しているので、懐かしい風情が美しく残されていた。
窓枠の景色。
農業、漁業、林業に使われた道具。
水稲栽培の道具。
<凍み豆腐作り> 青森県青森市酸ヶ湯 2008年 2月 2日撮影
酸ヶ湯の駐車場で凍み豆腐作りをしている現場に出くわした。
前日から一昼夜、屋外の寒風に晒してアメ色になった豆腐を取り入れるところだった。
凍み豆腐は、タンパク質が変性し健康機能性がより高まるそうだ。
アメダスで見ると2月1日から2日にかけての酸ヶ湯の気温はほぼマイナス10℃以下だった。
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一晩でアメ色に変わった豆腐。
棚から下ろして箱詰め作業。
雪を払いながら箱に詰めていく。
酸ヶ湯温泉。
酸ヶ湯温泉。
ロータリ除雪車は頼もしい。103号線は少し先のホテル八甲田まで除雪されている。
<八甲田除雪隊> 青森県青森市八甲田・十和田ゴールドライン 2008年 3月 28日撮影
青森県の八甲田山系と十和田湖を結ぶ「八甲田・十和田ゴールドライン」(国道103号)の冬季閉鎖区間(約8キロ)が貫通した。
3月初めからの除雪作業が28日終了、青森市と十和田市の接点である傘松峠で貫通式が行われた。
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除雪隊を励まして50年以上歌い継がれている「八甲田除雪隊の歌」と「檄文」。
今年の雪の回廊は例年と較べて1〜2m低いそうだが、5〜6m以上の白い雪の壁が続く。
青森市と十和田市から掘り進めてきた2つの除雪隊が最後の雪壁を除雪する。
青森、十和田の除雪隊が歩いて貫通点を渡り、知事に貫通の報告をする。
たくさんの報道カメラがやってきた。
ロータリー式除雪車。
八甲田除雪隊の歌
 1 春の息吹に萌えろよ緑 別れ惜しむな妙見に
   横内の里あとにして 今ぞ眺まん八甲田
 2 雲谷より眺むる青森湾に 汽笛もかすむ連絡船
   岩木に無事を祈りつつ  雪降りやまぬ展望台
 3 茅野の空に月影寒く 明日は難所の七曲り
   丈余の雪も何のその 今こそ腕の見せどころ
 4 春の吹雪に行く手阻まれ 凍てつく機械いたわりつ
   寒水沢から城ヶ倉 悪戦苦闘の除雪隊
 5 仙人ゆかりの女中坂だよ 友よあれが酸ヶ湯沢
   明日への英気を湯煙に 星空高き 地獄沼
 6 大岳 石倉朝日に映えて 睡蓮沼のその先は
   雪、雪、雪の魔の峠  負けてなるかと雪男
 7 南部平野を眼下におろし 猿倉見えれば一息と
   油にまみれた顔と顔 雪焼け面の吾が友よ
 8 百戦錬磨のつわものどもが 熱と意気と誇り持ち
   十和田の春を呼び起こす ああ、八甲田除雪隊
   ああ、八甲田除雪隊
<国際芸術センター青森> 青森県青森市 2008年 4月 27日撮影
青森公立大学の隣に国際芸術センター青森がある。
森の中にゆったりと存在する施設は心地よい。
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バス停横の弓形広場から四季のアーケードを歩む。
四季のアーケード。
円形の展示棟。
センターは森の中にある。キブシの花が咲いていた。
オオバクロモジ。
ミツバアケビ。
エンレイソウ。
森の中のオブジェ?
<王余魚沢小学校> 青森県青森市浪岡 王余魚沢 2008年 6月 1日撮影
王余魚沢と書いて「かれいざわ」と読む。
青森市街から青森空港を過ぎ、分水嶺を津軽平野側に降りるところに王余魚沢の山里がある。
2006年3月に閉校となった王余魚沢小学校の校舎・校庭と周辺農地を活用しようとNPOが動き出した。
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県道27号線から急な階段を上ると王余魚沢小学校。
山間の斜面に生み出された校庭。
雪囲いのままの学舎。
山間に立つ学舎。
山の中のプール。
ハルジオン。ツルアジサイ。
フジ。ミズキ。
タンポポ。
2008年5月15日 毎日新聞地方版の記事
学舎訪ねて:旧青森市立王余魚沢小 廃校に息吹、取り戻せ /青森
◇市から借り受け、フェアやイベント…NPO、新たな試み
 小中学校の統廃合が相次ぎ、廃校となった校舎の活用方法が課題となっているなか、青森市内のNPOが新たな試みを始めた。04年4月に休校、06年3月に閉校となった青森市浪岡王余魚沢(かれいざわ)の旧市立王余魚沢小学校を市から借り受け、夏休み子どもフェアや音楽イベントなどに生かす取り組みだ。廃校状況を調べている県教育庁学校施設課は「NPOが活用するのは県内では珍しい」といい、子供たちの歓声が消えた校舎に息吹を取り戻す一つのモデルとして注目されそうだ。【後藤豪】
◇思い出残り、地元も歓迎
 「王余魚沢小学校閉校のしおり」によると、同小は1895年10月に浪岡尋常高等小学校王余魚沢分教場として発足。1948年3月に浪岡町立王余魚沢小として独立し、59年4月には児童数が89人にまで達した。しかし徐々に減り、2004年の休校時には4人だけだった。
 校舎は廃校後の06年8月から青森市浪岡事務所の普通財産となったが活用方法はなく、市は早ければ09年度に解体しようと地元町内会から既に了承を得ていた。ところが今年3月下旬、青森市のNPO法人「あおもりNPOサポートセンター」から廃校活用の提案があり、市が「貸さない理由はない。ずっと活動を展開してほしい」と快諾した。
 同センターは青森、弘前両市のどちらからも人を呼べる地の利に着目し、新たな地域コミュニティーをつくる拠点にしようと考えている。
 プロジェクト期間は今年5月1日〜来年1月末の9カ月間で、賃貸料は約4万円。インストラクターを同行して子どもに木登りを体験させたり、夏祭りでバーベキューやカラオケパーティーを開くことなどを考えているが、具体的な計画は地域住民と話し合って決める。
 世帯数67、人口176人(今年3月末現在)の小さな集落からは、歓迎の声が上がっている。旧校舎近くに住むリンゴ農家の男性(71)は「壊されたら寂しくなっちゃう。『使う』と手を挙げてくれる人がいれば歓迎だ」と喜んでいた。
 同センターの小山内誠・副理事長(60)は「学校は地域の人たちとともにあるもの。廃校だったらこんな使い方があるというのを示していきたい」と意気込んでいる。
 閉校後、一度も使われることのなかった学校が生まれ変わろうとしている。
  ◇   ◇
 なくなってもいつまでも心の中で生き続ける母校。県内で廃校になった学舎(まなびや)のいまを随時、リポートします。
毎日新聞 2008年5月15日 地方版
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